2009年05月23日

転職して成功した 超大物編



転職して成功した超大物

タモリ
保険外交員・喫茶店従業員・ボウリング場支配人等 → タレント

保険外交員・喫茶店従業員・ボウリング場支配人等の職を転々とする。保険外交員(朝日生命)時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともある。この時期に同僚の女性と結婚した。また、喫茶店の雇われマスターだった頃は、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。

ジャズ・ピアニストの山下洋輔との出会いが芸能界入りのきっかけとなる。「四ケ国語麻雀」などで有名になり、漫画家の赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させた。また、のちにプロデューサー的にタモリを売り出している。

東京12チャンネル(現:テレビ東京)の深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』でデビュー。その後、日本テレビの棚次隆プロデューサーの目に留まり、『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)でレギュラーの座を獲得し、『オールナイトニッポン』で人気を不動のものとする。

1980年代後半以降、ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人ビッグ3の一人として数えられている。特に『いいとも』の司会者として知られ、同じ司会者による最長寿テレビ番組としてギネスブックに登録されており、2009年現在においても記録を更新している。
赤塚不二夫が亡くなった時の告別式では「私もあなたの数多くの作品の一つです。」との弔辞を読み上げた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』一部抜粋


ビートたけし
アルバイト → エレベーターボーイ → 漫才師 → 映画監督
高校を卒業後は母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。しかし大学2年の時、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。

大学時代には、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごし、ジャズ喫茶以外にも、菓子の計り売りや実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイなどを転々とする。羽田空港の荷役業では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた。のち通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。

1972年(昭和47年)夏、浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。

その後、ツービートを結成し、当初は正統派の掛合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。そして、大阪で頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。

1980年『マンザイブーム』が起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物にB&B、ザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。
また、日本国外では映画監督としての知名度が高く、数々の賞を獲得している。
「キタノ映画」のビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」と評される青の色使い。また、多くの作品で登場人物の「死」が描かれ、青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚とあいまって、全編に静謐な不気味さを醸し出している。

たけしの誰でもピカソで島田洋七がゲスト出演した際に「漫才では洋七に勝てない、しゃべりではさんまに勝てない、司会では紳助に勝てない。でも芸能人としてのトータルでは自分が一番かな」と漫才ブームを共にした芸人達と比較した上で自己評価をしている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』一部抜粋


黒沢 明
画家 → 映画監督
1928年、京華中学校卒業。画家を志して日本プロレタリア美術家同盟に参加、洋画家の岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を教わる。1936年、画業に見切りをつけて26歳でP.C.L.映画製作所(現在の東宝)に入社。谷口千吉の推しで主として山本嘉次郎の助監督(「馬」などを担当)を務める。
1943年、『姿三四郎』で監督デビュー。以後、終戦を挟んで『一番美しく』『わが青春に悔なし』『素晴らしき日曜日』『醉いどれ天使』『野良犬』などの社会派ヒューマンドラマの佳作を次々と発表し、東宝の看板監督の一人となる。
その後も、日本国外資本参加による映画制作が続き、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラを外国版プロデューサーに配した『影武者』(1980年)、フランスとの合作の『乱』(1985年)、米ワーナー・ブラザーズ製作でスティーブン・スピルバーグが提供を務めた『夢』(1990年)等の作品を監督。

1985年11月、文化勲章受章。

1990年米アカデミー名誉賞を受賞。ルーカスとスピルバーグが「現役の世界最高の監督です。“映画とは何か”に答えた数少ない映画人の彼にこの賞を送ります」と紹介した。
映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞、翌1999年には米週刊誌タイム・アジア版で「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋
posted by 転職して成功したい人 at 18:14| 転職して成功した 超大物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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